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『メグレ式捜査法』に学ぶ観察力|共感型・論理型、あなたはどっち派?
今回紹介する本は、シムノンの『メグレ式捜査法』という作品です。

あらすじ
ロンドン警視庁のパイク刑事が、メグレ警視の『捜査手法』を学ぶためにパリを訪れる。
その矢先、地中海の小島ポルクロール島で漁師マルスランという男が殺される。
メグレはパイクを連れて現地へ赴くが、島はのどかで、住民たちもどこか無表情で現実感がない。まるで殺人など起こっていなかったかのよう。
真相を追うというよりも、島の空気に浸かるようにして、メグレは人々の話を聞き歩く。
パイクはその様子にいら立ちながらも、メグレのやり方に次第に惹かれていく。
事件の決定的な証拠は現れず、誰が犯人なのかも明確には示されないまま、メグレは静かに結論を導き出していく。
はじめに
この物語は、殺人事件を描いています。
けれど、誰も取り乱さず、泣きも叫びもしません。
感情があるはずなのに、感情がまるで風景の背景に溶けてしまったような世界。
フィクションでありながら、ここまで感情を排して描かれると、かえって現実よりもリアルに感じられる──その冷たさが逆に新鮮です。

本記事では、ジョルジュ・シムノン『メグレ式捜査法』の舞台となる南仏のポルクロール島と、そこに集う『どこか途中』の人たちについて、ゆるやかに辿ってみたいと思います。
南フランスの陽だまりのような時間に、そっと触れてみませんか。
なぜポルクロール島だったのか?
この地中海の小島は、実在するリゾート地で、南仏プロヴァンスの陽光と穏やかな海に囲まれた『地上の楽園』とも呼ばれています。
けれど、シムノンが描いたポルクロール島は、どこか様子が異なります。
美しいはずの風景のなかに、うつろな人間関係が静かに浮かび上がってくるのです。


観光地としてのポルクロール島
美しいビーチと手つかずの自然が魅力の、南フランス屈指のリゾート地です。
サイクリングやハイキング、透明度の高い海でのシュノーケリングも人気。
環境保護が徹底されており、ゆったりとした時間を味わえます。

ポルクロール島は、南フランスの地中海に浮かぶ小さな島。
自然保護区に指定されており、車の通行は禁止。白い家と小道が続く、まるで絵本のような風景が広がります。のんびりとした時間が流れる、癒しの島です。
地中海の小さな島という、のんびりとした風景、明るい陽射しと、ゆっくり流れる時間。
事件が起きても、人びとは取り乱すことなく、感情の波も穏やかです。
そんなのんびりとした心の温度を保ったまま、物語が静かに進んでいきます。
ポルクロール島は、その空気を自然に支えてくれる物語の舞台装置だったのかもしれません。
〈ノアの箱舟〉──ポルクロール島に浮かぶ、小さなコミュニティ。
地中海の小島、ポルクロール島に浮かぶテラス付きの──〈ノアの箱舟〉。
そこは、ただの飲み屋でも宿泊施設でもありませんでした。
どこか行き場のない気持ちを抱えた人たちが、ふと立ち寄り、静かに時間を過ごしている場所です。
〈ノアの箱舟〉という名前自体が、すでに象徴的です。
それは、旧約聖書に登場する、大洪水から逃れるための船でした。
この物語でも、社会の流れから押し出されたり、追われたり、あるいは自ら逃げてきたりした人々が、ほんのひととき、寄り合っているだけの場所のように見えます。
過去を見ない男、恋人の夢を見守りただ微笑む女性、ただ座って煙草を吸うだけの客(メグレ?)。
彼らは皆、人生のどこかで『途中下車』をし、ここに立ち寄っています。

ポルクロール島のような閉じた小さな空間は、登場人物の動きや会話、そして無言の時間に自然と注目が集まります。
この作品でも、そうした舞台を設定することで、感情の起伏よりも空気や間が前面に出ているように感じられます。
どことなく、パリの文学者や芸術家たちが、カフェの隅に集まっていたような風景も思い出されます。
名もなき誰かが、ふと現れ、ふと姿を消していく。
交わされる言葉よりも、そこにいたという気配のほうが強く残るような場所です。
〈ノアの箱舟〉もまた、そうした集まりにどこか似ているのかもしれません。
また、〈ノアの箱舟〉のような、はっきりと役割の定まらない空間が登場するのは、登場人物たちの背景や内面をあえて語らせない、というシムノンの語り口と深く関係しているのかもしれません。
そうだとすれば、この舞台設定は、人物たちの“語られなさ”を自然に引き出すための装置として機能しているのかもしれません。
「メグレとパイクに学ぶ現代の仕事術」──共感力と論理、あなたはどっち派?
今回の「メグレ式捜査法」は、フランス警察のメグレ警視のもとに、イギリスから視察にやってきた若い刑事パイクが同行するという、ちょっと珍しい設定ではじまります。
パイク刑事の任務は、フランス流の捜査、とくにメグレの「直感と共感」による捜査手法を見学すること。
論理と手順を重視するイギリス式の捜査を学んできたパイクにとっては、すべてが新鮮で、どこか不安でもあるようです。
この構図、どこか現代の職場にも似ていないでしょうか?
たとえば「直感型の上司」と「理詰めの若手」──
チームのなかにある、価値観のちがいやアプローチのギャップ。
「上司タイプ:メグレ」「部下タイプ:パイク」なんて言ったら怒られそうですが……ジョルジュ・シムノンの小説に登場するメグレ警視とパイク刑事。
今回はそんな二人の姿を、現代の仕事術になぞらえて読み解いてみました。※番外

メグレが上司だったら……と想像してみると、ちょっとおもしろいですよね。
パイクのように戸惑いながらも、学ぶことがあるのかもしれません。
まとめ
今回は、メグレの独壇場というわけではなく、後輩のパイク刑事が同行し、フランスとイギリスの捜査スタイルの違いがちらりと顔をのぞかせます。
それでも舞台がポルクロール島だったせいか、全体の空気は終始おだやかで、
事件ものとは思えない、和やかな読後感が残りました。
どちらかというと、事件を追うというよりも、
──被害者には申し訳ないのですが──
島の空気に身をまかせた「観光バカンス小説」のようにも感じられます。
でも、その“ゆるさ”のなかに、語られない過去や、行き場のない気持ちが静かに滲み出してくる気もします。
捜査は進まない。
でも、島の時間は過ぎていく。
読者もまた、パイク刑事と一緒に、どこかぼんやりしたまま旅を終えます。
そんな読後の静けさこそが、シムノンの仕掛けた脱力ミステリの味わいなのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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