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ディー判事と香時計の謎――ファン・ヒューリック『五色の雲』を読む
今回紹介する本は、『五色の雲』ファン・ヒューリック著です。
このブログでは、ファン・ヒューリックによる東洋ミステリ『五色の雲』を取り上げ、作中に登場する”香時計”という文化的装置や、唐代の簡易な検死制度と、それを現代的な推理に昇華した作者の創作手法について考察しています。
『五色の雲』は、中国唐代を舞台とした法廷探偵ディー判事シリーズの短編集で、
官僚でもあった名判事・ディーが、密室や奇怪な死の謎を解き明かしていく全8編が収録されています。
本格推理と東洋風俗の融合が特徴で、静謐な雰囲気と象徴性の高さが際立つ一冊です。
実は作者のファン・ヒューリック(Robert van Gulik)は、オランダ出身の外交官・東洋学者で、漢詩や書画に通じ、中国古典文学への深い造詣を持ちながら、ミステリ作家としても国際的に知られています。

今回のブログでは、短編集の中から「五色の雲」と「青蛙」の二編を取り上げています。
どちらも唐代の空気感が丁寧に描かれており、ディー判事シリーズならではの東洋的な静謐さと、寓話のような構成美が印象に残る作品です。
はじめに
ディー判事(Judge Dee)は、唐代の実在の官僚・狄仁傑(てき じんけつ)をモデルにした架空の名判事です。
彼を主人公とした探偵小説シリーズは、オランダの外交官であり東洋学者でもあったロバート・ファン・ヒューリックによって書かれました。

ヒューリックは、中国古典文学に深い理解を持ち、古い中国の推理小説の形式を踏まえながら、西洋ミステリの論理性を融合させた独自のスタイルを確立しています。

ディー判事シリーズは、法と儒教的道徳、そして人間心理が交錯するミステリとして、多くの読者を惹きつけてきました。
【1編目】『五色の雲』 あらすじ
五色の雲――それは古代中国で吉兆を告げるとされた瑞雲。
けれど、ディー判事が地方都市・平来で最初に直面したのは、その名に似つかわしくない静かな死だった。
香の煙が残る密室。文様のある香印。そして、首を吊った侯夫人。
物言わぬ“香”が、死の時間を告げる装置になっていたとは――。

【1編目】『五色の雲』 登場人物
本作『五色の雲』では、造船業をめぐる経済的思惑と、邸宅内で起きた女性の死が中心となる物語、静かで美しい舞台の中に、不穏な空気が徐々に濃くなっていきます。
以下は、その鍵を握る主要人物たちです。
■ 伊聘(イーペン)
富裕な造船業の船主です。
丁寧な物腰で政務にも協力的な人物として登場。平来での有力者として描かれています。
■ 花敏(フワミン)
同じく船主で、伊聘の共同事業者です。
人前では穏やかですが、女出(おんなで)=女のうわさが絶えず、どこか信用を置かれない一面があります。
■ 侯(ホウ)
法律家で、地域における信頼の厚い人物です。
文官としての堅実な立場を保ちながら、事件の鍵となる邸宅――自宅――で起きた出来事によって中心人物に。
■ 方(ファン)
没落した名家の出で、現在は絵描きとして生計を立てている男。
侯夫人との交友があり、社交界の周辺をさまようような存在です。
■ 侯夫人
侯の妻。物語は、彼女が自邸の一室で首を吊った状態で発見される場面から始まります。
「香時計」という東洋文化的ガジェットのミステリ的活用
香時計とは、香木の粉を線状または渦巻き状に配し、燃焼の進み具合によって時間を計る古代中国の装置です。
火をつけると、香は静かに燃え進み、煙と香りを漂わせながら“時”を刻みます。

『五色の雲』では、侯夫人の死の部屋にこの香時計の痕跡が残されており、死亡推定時刻の手がかりとして扱われます。
しかし、それが正確な時を示したのか、それとも誰かによって意図的に途中で止められたのか――
香の繊細な性質と“証拠性”の曖昧さが、物語に深い余韻と謎を与えています。
時を可視化するのではなく、香りとともに“感じさせる”装置としての香時計。
それは、ミステリの中でも非常に詩的な仕掛けであり、ファン・ヒューリックが愛した東洋文化の精髄でもあるのです。
面白いことに…
実は、物語の中で「五色の雲」という言葉が登場することはありません。
登場人物たちは、香時計をあくまで“香の文様”や“時間を測る道具”として扱っており、「五色の雲」と呼ぶことはありませんでした。
「五色の雲」という言葉の象徴とは
作者ヒューリック自身が”香時計”から連想したであろう言葉「五色の雲」。

それは瑞兆の象徴であるはずの五色の雲が、ここではむしろ、人間の死や秘められた感情を隠す“静かな帳”のように用いられました。
本作のタイトル『五色の雲』に添えたのも、殺人事件を描くミステリとしては一見意外に感じてしまいます。
ですが、東洋思想の本質ともいえる“陰と陽の交わり”という視点から見れば、この象徴はむしろ、本作にふさわしいタイトルだったのかもしれません。
「五色の雲」という言葉は、吉兆としての意味を持ちながらも、本作で“死”と“静けさ”を包み込む象徴として、あえて陰陽の“対”をなすかたちで用いられているようにも思えます。
【2編目】『青蛙』 あらすじ
舞台は西暦667年、都にほど近い黄源という古い町。
蓮池のほとりにひっそり隠棲していた老詩人が殺害される事件が発生。
目撃者もおらず、事件は一見して詩的かつ不気味な様相を呈している。
夜の蓮池に浮かぶ、幾百もの青蛙たちが鳴き声をあげる。
その鳴き声に、ひとりの加害者が苛立ちを募らせ、去り際に吐き捨てるように罵る――。

【2編目】『青蛙』 登場人物
本作『青蛙』は、静かな蓮池のほとりで慎ましく暮らす一組の夫婦に訪れた、ある一夜の出来事を描いた短編です。
季節は初夏。夜の湿気と蛙の鳴き声が満ちる中、突如として訪れる“青蛙”の気配が、穏やかな生活に小さな波紋を広げていきます。
■ 孟覧(モウラン)
老詩人。今は蓮池のほとりに隠棲。
若き妻・桃花とともに穏やかに暮らしていた。
■ 桃花(タオファ)
孟覧の若妻。もとは女衒に売られた身で、柳街にいたところを孟覧に救われた。
■ 元開(ユァンカイ)
街の薬屋の男。表向きは堅実そう。
■ 文守房(ウェンショウファン)
茶商業組合の長。町の有力者。
■ 施明(シーメイ)
桃花の弟。定職にもつかず、酒と博打に溺れるならず者。
時代考証 vs フィクション性
「死後硬直が始まったばかりだ。この蒸し暑さだ、死亡時刻は断定しづらい。真夜中以降いつでも、というところか」
唐代・漢源の古びた家で発見された老詩人の死体に対し、ディー判事が口にするこの一言は、現代の読者にとってごく自然な“検死”の一場面に映ります。
実際、唐代の官吏制度には刑部や御史台といった司法機関が存在し、事件捜査や裁判が行われていました。
ただし、作品内で描かれるような精密な検視や死亡推定などが、当時一般的だったかといえば、史料からは慎重な姿勢が求められます。
それでもファン・ヒューリックは、こうした歴史的な枠組みに対して、あえて創作上の自由を加えているのが面白いです。
唐代中国の官僚制度や風俗には細心の注意を払いつつも、事件捜査の手法そのものには“20世紀的なリアリズム”を積極的に導入しているのです。
「ディー判事=東洋に生きる探偵」という像を成立させるための、意識的に融合させたのかもしれません。
西洋における「蛙」のイメージと季節感
「青蛙」というタイトルを見た瞬間、日本や中国の読者には“夏の夜”の湿った空気や、池の縁に響く蛙の声が自然と立ち上がってくるかもしれません。
実際、東アジアでは蛙は詩や風物詩の中で季節の使者として扱われてきました。

一方、西洋では蛙は童話や自然観察の対象であり、必ずしも“季節の象徴”ではありません。
それでもファン・ヒューリックは、「青蛙」という言葉を物語のタイトルに据えました。そこには、彼が長年身を置いた東アジア文化への深い理解と敬意がにじんでいます。
では、東洋的文化はオランダ人のヒューリックの中でどう処理されたのでしょうか?
実はそこに、彼が単なる“観察者”以上の深い共感者だったことを示す兆しがあります。
ファン・ヒューリックは、「東アジア的感性」に深く共鳴し、それに染まっていたのではないか——。
彼は外交官として中国や日本に長年滞在し、漢詩・仏教・道教・書画・古典を深く学んでいます。
実際、彼の作品には漢詩の挿入や季節感・風景描写が東洋的なセンスで散りばめられており、単なる西洋人作家とは言えません。
つまり――
彼は、本国における季節的な共感性や象徴の共有を、あえて犠牲にしてでも、東洋的な情景と象徴のもとで物語を描くという選択をしていると考えることができます。
まとめ
唐代という歴史的にも文化的にも奥行きのある時代を舞台にし、しかも実在の人物・ディー判事(狄仁傑)を主人公に据えて物語を展開する。
ファン・ヒューリックが行ったこの試みは、単なる好奇心や異国趣味では決してたどりつけないように感じます。
日本人にとっても唐代はすでに異文化であり、古代中国の法制度や社会風俗を物語として緻密に再構成するには、深い文化理解と想像力が必要とされます。
それを、異国出身の作家が学術的関心と文学的感性の両面から実現したことにこそ、彼の作品がもつ重層的な魅力があると思いました。
また、実在の人物をモデルとした作品には、生半可な知識では、描写の誤解や文化的な齟齬が生まれる危険もあります。
欧米人が東洋世界をどう描くのか、という懐疑的な視線が向けられることも当然想定されたはずです。
それでもヒューリックは、東洋文化を“遠くから眺めるもの”としてではなく、しっかりと“自分の内側から感じとるもの”として描こうとしました。
その誠実な姿勢が、物語の静けさや象徴の重なりに自然と表れているのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました
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