コーネル・ウールリッチ 『恐怖』 主観が世界をゆがめる心理サスペンス

今回紹介する本は、コーネル・ウールリッチ『恐怖』という作品です。

コーネル・ウールリッチ。
生前はそれほど評価されなかったものの、死後にノワール作家として再評価され、今では「静かな恐怖」を描く名手として知られています。

彼の人生は、その作品世界そのものでした。
生涯独身で、母親と二人きりの生活。住まいを定めることもなく、ニューヨークの安ホテルを転々としながら、ほとんど母以外の人間と関わることなく生きていきました。


そんな閉じた生活から生まれたのは、誰にも助けを求められない孤立無援の物語たちです。

登場人物は常に孤独で、恐怖に晒されるのは外からではなく、自分自身の心の奥底からという描き方。
「悪は世界の外にあるのではなく、自分の中にある」
そう言いたげなウールリッチの物語は、派手な犯罪ではなく、「誰にでも起こりうる闇」を描きます。

今回取り上げる作品『恐怖』もまた、その極致と言える作品です。

あらすじ

主人公プレスコット・マーシャルは、将来を嘱望される会社員。
裕福な女性マージョリーとの結婚を控え、順風満帆の人生を歩んでいた。
だが、ある夜の酒の勢いで、名前も知らない女と関係を持ってしまう。
彼にとっては忘れ去りたい一夜だったが、女は執拗に彼をゆすり始める。

結婚式の当日、彼女が押しかけてきたことで、マーシャルはついに彼女を殺してしまう。
そしてそのまま、マージョリーと式を挙げ、新婚旅行へと旅立つのだった。

序盤 人生の転落を描く

マーシャルは、もともとはごく普通の会社員でした。
勤勉で、将来を期待される存在で、結婚も控えていました。
そんな彼が、たった一度、酒に酔って関係を持ってしまった相手に脅され――
気がつけば、引き返せないところまで追い詰められてしまいます。

彼はその過ちを、なかったことにしようとします。
逃げようとするのではなく、「元に戻そう」とするのです。
けれど、それが地獄の始まりでした。

誰も何も知らない。
でも彼には、すべての人が「知っている」ように見えてくるのです。
目線、声のトーン、沈黙……そのすべてが、告発のように聞こえてしまう。

結婚後、新天地アトランティック・シティに移り住んでも、恐怖はついてきます。
通りすがりの営業マンが刑事に見え、職場の同僚の会話が取り調べに聞こえる。
誰も責めていないのに。誰も追っていないのに。
彼は、自分で自分を裁き続けるようになっていきます。

読者は、その自罰的な迷路のなかを一緒に歩かされながら、
「この人が、ほんとうに悪い人だったのだろうか?」と、思わず心の中で問い返してしまうはずです。

何気ない日常の捉え方が変わる

ウールリッチの恐怖が真に恐ろしいのは、異常な世界を描くのではなく、私たちが日々暮らす日常の中に、異常をじわじわと染み込ませてくる点にあります。

『恐怖』の主人公マーシャルは、殺人という重大な罪を犯した後も、日常生活を装って暮らそうとします。
けれど、その日常は彼にとって、もはや「ただの生活空間」ではなくなっていきます。

たとえば、ある日自宅を訪ねてきた保険の勧誘員に対して、彼はただの営業とは思えず、「ニューヨークから自分を追ってきた刑事が変装して潜入してきたのではないか」と勘ぐってしまいます。

話し方の癖、目の動き、言葉の間――
すべてが「取り調べ」のように思えてくるのです。
玄関のドアが閉まるまでの数分間、マーシャルの脳内では何通りもの「罪の発覚」の筋書きが浮かんでは消えます。

新聞の見出しは自分への隠喩に思え、同僚の一言は「何か知っている」というサインに見える。
そして最も辛いのは、妻マージョリーの優しさや沈黙すら、「本当はすべて気づいていて、告白を待っているのではないか」という疑念につながっていくことです。

このようにして、マーシャルの視界は、現実のままに見えていても、その「意味」だけが歪んでいくのです。

世界は変わっていません。
けれど、彼の中で、世界の意味づけが根本から崩れていく。
その結果、日常のすべてが「告発」や「監視」として彼に襲いかかってくるのです。

この「意味の転倒」こそが、本作における恐怖の本質であり、ウールリッチが極限まで描き出す精神崩壊の入り口となります。

先入観という色眼鏡は、もしかしたら誰にでも…。

その深読みや先入観という色眼鏡は、特別な人だけがかけるものではありません。誰でも、ふとしたときに無意識にかけてしまうことがあります。

たとえば、相手の言葉に「何か裏があるんじゃないか」と思ったり、笑顔の裏に「本当は怒っているのかもしれない」と感じたりした経験はないでしょうか。


それがただの思い過ごしで終わればよいのですが、
もしその「思い込み」がだんだんとふくらみ、
やがて目に映るすべてが疑わしく見えてきたら――
それはもう、現実そのものが変わってしまったのと同じです。

マーシャルが陥ったのは、そうした思い込みが極限まで膨らんでいった結果にすぎません。


はじめはほんの小さな自己防衛、「できれば知られたくない」「うまくやり過ごしたい」という、ごく自然な反応でした。


でもそこに、恐れや不安が積み重なっていくうちに、世界そのものがゆがんで見えるようになっていったのです。

この作品は、「恐怖とはなにか?」を描くだけでなく、私たち自身の見え方や思い込みの怖さにまで目を向けさせてきます。

自分の目に映るものは、本当に現実そのままなのか?
それとも、自分の心が作り出した解釈に過ぎないのか?

そんな問いを、静かに、けれど確かに読者に投げかけてくる作品です。

まとめ

『恐怖』は、何かが「起こる」小説ではありません。
あるのは、ただ一人の男が、過去と良心と妄想にじわじわと追い詰められていく姿。
その息苦しさとともに、ウールリッチの美しい文体と情景描写が、静かに胸を打ちます。

本作を読み終えてあらためて感じたのは、私たちは普段小説を読むときは、「物語の主人公の目を通して、世界を見ている」ということです。

ウールリッチのように極端に主観に寄った構造でない限り、それをあまり意識することはないかもしれません。


けれど、実際は恋愛小説であれ、ファンタジーであれ、読者はいつも、登場人物の「見え方」や「受け止め方」を通して、物語を体験しています。

『恐怖』は、そのことをあらためて思い出させてくれます。

つまり、物語を読むということは、主人公の目線を通して、物事の見え方や感じ方を一緒に体験することなのだと、あらためて気づかされました。


それが当たり前すぎて意識していなかったけれど、『恐怖』のような極端に主観に寄った小説を読むと、普段の読書でも私たちは登場人物の「視界」を借りて、物語を歩いているのだと実感します。

さらに、「恐怖」は必ずしも外からやってくるものではなく、ちょっとした思い込みや不安が、いつの間にか膨らんでいくこともある。
本作は、そんな心の動きを静かに描いていて、どこか自分の中にもあるかもしれない感覚として、残っていきました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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